2009年7月 5日 (日)

インチキ

山陰に列車が入る。日本海は狭霧のごとく水平線が消えて暗くさみしい。往路復路ともに感じたことだが、この山陰はこのまま東北に地続きなのじゃないだろうか。背骨のような山脈を越えて、太平洋側につながるということがナイ。なにより、ひとの気配がしない。家屋も道路も静まり返って、その沈黙はなにかしら溜め込んだ不安につながる。おそらく冬はなおさらだろう。・・・宿泊のホテルはミスト・サウナがあるというだけで選んだので、温泉街から遠い。その温泉街にも昼間、散策を試みたが、殆どの店舗は閉まっていて、昼食をとろうとした食堂も、営業時間が夕方の6時~深夜2時となっている。ここはひなびた温泉街、というよりも旧態依然とした、いわゆる風俗的温泉街なのだ。ヌードスタジオが2軒、ソープが一軒、射的場が一軒、覗くとスマートボールまである。ホテルの食事は軒並みダメで、毎日同じ刺身が出てくるのだが、これが生あたたかい。献立のバランスが無茶苦茶で、美味い不味いという以前に、料理が下手なのだ。ミスト・サウナには、5分入って5分休憩を三回繰り返す。それからカラダを洗って露天風呂につかる。他にはなにもすることはナイ。三日目、日本一危険な観光地、三徳山三仏寺に行ってみる。役の小角が開いたという修験道の仏閣が、断崖絶壁にそびえていて、そこまでをアスレチックな登山で参拝する。道なき道で、九十度の勾配を岩や木の根につかまりながら、往復で二時間程度。もともと修験道は山岳信仰と、密教(天台宗)が融合した宗派だが、往路三分の一で息がきれて、引き返そうかと思ったくらいだ。それでも、三分の二を過ぎると、カラダのほうが慣れてきて、さすがにカラダというのは順応というのがよく出来ている。けっきょく一時間四十五分ばかりかけて、往復した。毎年一人くらいの転落死者が出るだけあって、かなり険しい道のりだったが、けっこう体力があるもんだと自分でも感心した。翌日からの筋肉痛も筋肉のある証のようで悪い気がしない。実をいうと、下山して、入り口の案内書に辿り着いたときの受け付けの作務衣の応対に、aggressiveが爆発して、蹴りを入れてやろうかという事態になったのだが、家人が必死で止めてくれたので、入り口の戸を蹴飛ばすだけで終わった。家人には説明したが、せっかく二時間かけての努力が、寺の者の横柄な態度で、すべてインチキに思えてくるのが腹立たしかったのだ。まあ、この寺はインチキではある。阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三仏を本尊にしているなんてのは、欲張り過ぎである。にしても、ここにいる坊主や作務衣の者は、蒔かず刈り取らず、過去の遺産で適当な法螺ふいて暮らしているのだから、インチキには変わりない。

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誕生日

7月5日2009年。57歳になる。ここまで生きて、今日思うこと。「正しきは報われぬ」もちろん私自身を正しきひとなどというつもりはナイ。

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2009年6月30日 (火)

開店休業のお報せ

湯治、というか、放射能といえばゴジラだと思っていたら、ラドンなのでした。ラドン・ミスト療養のために、日本海のほうの温泉に4日ほど行ってまいりますので、お休みです。ひなびた温泉町だそうです。そうそう、いい忘れてましたが、勇造さん、還暦コンサート、おめでとうございます。それから、と、流山児さん、『ユーリンタウン』大成功おめでとうございます。どっちも、宿痾のために足を運べませんでした。まことに残念しごくです。では、出がけに歌を。

こころたけくも おにがんならず ひととうまれて なさけはあれど ははをみすてて なみこえゆけば ともよけいらとは いつまたあわん

なみのかなたの もうこのさばく おとこたこんの みのすてどころ むねにひめたる たいがんあれど いきてはかえらむ のぞみはもたじ  (『蒙古放浪の歌』)

たかが、温泉でえらい、たいそうな歌ですんまへん。

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2009年6月28日 (日)

やっぱりいっておくか

鬱病ゆえのaggressiveな病態のせいだと堪忍してもらうことにする。中日新聞6月27日夕刊(毎土連載)の『安住恭子の舞台プリズム』「劇団B級遊撃隊・夜明けの奥地」の文脈が私にはよくワカラナイ。まず、冒頭の「脳死から死に至る姿」というのは、どういう意味なのか。この文脈でいくと「脳死」は「死」ではナイということになる。(ただし、脳は死んでいる)、では、「死」とは何なのか。(私も脳死を個体の死と認める法案には反対の者だ)つづいて、シュールな(これはまともにシュールレアリスムとして、非現実的と解せばいいと思うが)冒頭の展開で、舞台に顕現されていることが、「女性の意識の世界だろうということが分かる」とあるが、では、この「意識」は、何処にあるのか。脳は死んでいるのだから、文意から察すると、意識だけが外界にあるとしなければならない。これを、単純にシュールのひとことでかたづけていいのだろうか。(この件については、私自身エッセイにも書いた)しかし、シャツとズボン姿が働きづめのメタファーで、ワンピースが少し頼りないシンボライズであるという根拠はどこをどうすれば表象として現れるのか。シュールだからどうでもいいのだろうか。それとも、私が服飾オンチで気づかないだけなのだろうか。指輪を何度も拾っては投げる動作は「男との幾度かの愛憎を、想像させる」のに異論はナイが、でも、それって使い古されてねえか。こういうのに赤面しねえかな。と思うのだが「シンとした魅力的な始まり」にみえたのならそれも、まあいいか。ただ、女性の踊りはフォークダンスである。フォークダンスは、次々と相手を変えていく手法のダンスだから、この「死んでいく」女性は、フォークダンスの喩と指輪の喩と、二重の強調をしなければならないほど、男をとっかえひっかえしていたのだろうか。さらにワケわかんないのは「彼女の意識下の思い出」って、「脳死」しているのに、意識下の思い出というのは、奈辺に存在するのだろうか。これもシュールだからいいのかな。万能だな、もう。「脳死状態で見る夢はとりとめもなく、歪み、拡散する」に至っては、「脳」が死んでいるのに、・・・ということは、この「脳死」ということ自体をひとつの不条理な矛盾として解せばいいのだろうか。「彼女はいつか、そうした記憶からも取り残されていく-。そこに死がある」「そのように死を描いた」ここがワカラナイ。評者は、この作品のどこに特殊な「死」があって、それがどのように描かれたのかという差異をいいたいのだろうか。死んだことがナイので断定は出来ないが、作品において、私が観た限りでは、「脳死」の死と、いわゆる「死」との描き方の違いは何もナイように思えた。「ここには死の意味を探る哲学はない」たしかに、思弁的なものはヒトカケラもなかった。ただしそれは、ドラマツルギーの問題ではなかったように考える。「けれども生と死の実相を見ているように思えた」。で評論は閉じられる。〔実相〕というのは、ふつうに用いても、仏教用語として用いても、〔真実の姿〕のことだ。ほんとかよ。という疑義だけが私には残った。少なくとも私にとっては生きるの死ぬのは日常茶飯における問題だからだ。

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2009年6月27日 (土)

ふっキる

ウディ・アレン新作『それでも恋するバルセロナ』には、ずいぶん不満だった。ところが、どういうワケか、私のユリイカは朝方目覚めのときに訪れるらしい。「あっ、そうか」と気がついて、あれは私の観方違いだったとハッキリ評価が裏返った。いつまでも『セプテンバー』や『アニーホール』を引きずっているのはこっちで、ウディ・アレンのドラマツルギーは、すでに先にいってるのだ。ひとことでいえば、「ふっキる」という手法、方法である。余分なものを含めて必要だと思えるようなプロットまで、それで構築出来るギリギリまでバッサリとやってしまう。そうすると、今作は恋愛のチャンバラということになる。恋愛心理がどうのこうのと、そういうお決まりの部分はすべてあっさり「ふっキって」しまっているのだ。・・・『ウルヴァリン』(ギャヴィン・フット監督)にはしてやられた。これも、見事なふっキり方で、マーベルを原案だけいただきの、さすがにアメリカは脚本家の層が厚い、コミックの単純幼稚なスジをちゃんと映画のものにしている。優れたミスディレクションだと、『Xメン』なみのレベルだろうと油断して観ていた私は、感心した。コミックの実写化の中でも最も成功している作品だと思う。『K-20』の何がマズかったのかがよくわかった。・・・で、帰ってからは録画してある『必殺2009・最終話』。これも実に小気味のいいふっキり方である。ストーリーはお約束なのだが、責め屋(必殺ゆかりの火野正平)や瓦版屋を登場させることによっての、実世間に対する皮肉と揶揄が効いている。さらに同僚の同心の行動が、意外性でありながら、ストーリーに厚みを持たせる。時代考証的には、同心は朱房の十手は持てないのだが、そんなことはもうどうでもいい。モーニングから帰宅後、名残を惜しんでもう一度じっくり観る。・・・ともかく学んだことは「ふっキる」というドラマツルギーである。この場合の「キる」は「斬る」であり「kill」だ。

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2009年6月24日 (水)

映画情報『トランスポーター3』

リュック・ベッソン脚本、製作の人気シリーズ第3弾。あえて難クセつけるなら、このシリーズは『007』とは一線を画していたところが面白かったんじゃナイかなと思うのだ。が、何だか『007』(最近のダニエル・クレイグ主演のものではあるが)にちょっと近づいた感じがして、おっさん、たのんまっせと、一喝入れたい気がしないでもなかった。とはいえ、これだけの娯楽映画が、何でいまの邦画にはなくなったのだろうか、と、嘆くより、不思議でしかならず。やれケータイ小説の映画化だの、必ず泣くだの、ゆるゆるの演技がいいだの、それもスジの善し悪しで、スジもヌケもドウサもたいしたことなく、そうかと思えば、おセンチな戦争映画に、前世紀の青春熱血路線だ、では、食傷というよりも、食わず嫌いである。この『3』で主人公がどれだけのせりふを口にしたか。数えるほどでしかナイのだ。それもすべて短く適切なエスプリの効いたひとことである。つまり、このシリーズは、新しいハードボイルドだと思うのだ。いつまでも、B級タブロイド版でいてもらいたい。

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演技論・メモ

演技が自己表現などではナイことは、何度も書いていることだが、その錯誤がどこからやってくるのかといえば、演技者(役者でも演者でも俳優でもいいんだけど)にとって、演ずるということが「ある〔欲望〕の〔充足〕」という営為を含んでいるためだ。これは上手く「役」を演ずるかどうかということとは直接に関係しない。私などのように演出家でもナイのに、演出などやってる者にとっては、その演技者が上手く役を演じているかどうかよりも、その演技者がおのれの欲望を充たしているかどうかに、多くの注意を払う。その欲望が、逸脱して観客に不快感を与えないようにすること、私の演出としての仕事の第一は、この調整だといっても過言ではナイ。演技者がナニを欲してヤリたがっているのか、それをみつけ出すこと、それが、戯曲における劇との文脈から生じていることを逐一確認すること、私の演出などはそこに尽きる。この場合、演技者の充足は、演技が観客を通してもどって来る運動においてでも、演技者が対自的、即自的に感ずる悦びであってもかまわない。この論理の根拠はたいしたことではナイ。ただ、自身の演劇の始まりというものが、そうであったから、という他の何でもナイからだ。

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2009年6月22日 (月)

さても

本日明日は、伊丹。塾。これが、ナニをレクチャーしていいんだか。鬱病の身体症状は殆ど終息してきているのだが、精神的には、aggressiveと、焦燥の繰り返し。まるで、負けのワカッタ囲碁を打っているようで、頭、かかえているところ。思考能力には問題ナイようなのだが不安定。脳の便秘みたいなもの。朝から視力減衰で、とくに右目が視えにくい。つい先日の眼科の定期検診では、眼圧、視神経、などに異常はナシ。さても梅雨時、ただでさへ鬱陶しいのだが、雨はそうキライではナイ。ただ、この蒸し暑さが、堪える。交感神経はむずがって暑いんだかそうでナイんだか、じわじわと汗だけ出る。好不調、ありと知れば、許容せるとはいうものの、さてもさても、なのである。

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2009年6月20日 (土)

キャッチコピー

ハナから太宰の短文(名文)が出てくる。これを、ナビゲーターの女子アナが「キャッチコピーのような文句です」と感想めいたことを述べる。これがインプットであるならば、アウトプットにおいては「しかし、そうではナイのです」と結ばねばならぬ。ところが、この欺瞞的排他主義邪知暴虐受信料放送局(北朝鮮ふうにいうとそうなる。ここで、邪知暴虐は、太宰の有名な短編小説の冒頭からわざと抜き出して用いた)は、肯定的に終わらせる。「ほんとうは太宰は正義の味方で、家庭的で、立派なひとだったのです」が結論めいて謳われる。ここまでくると奸佞邪知(かんねいじゃち。これも、同じ短編から抜き出した)である。私はキャッチコピーそれ自体のことを悪くいっているのではナイ。たしかに、太宰のビビッドな表現は、あたかも惹句のような〔いいきり型短文〕を多用する。しかし、文学の表現と商業宣伝文案とを同じように扱っていいはずがナイ。こういう手触りでなにやらワカッタような顔をして平然としている厚顔無恥な放送偽インテリが許せないのである。「かならず負けてやる」というコトバどおり、太宰治は太宰治の生涯を完璧に演じきって、太宰治の人生を完成させて、自身を終えた。至難の業である。太宰が、その作品が、いまも太宰ファンをとらえて離さないのは、奈辺にあるのか、人民から暴力団とまったく同じように上納金を集めて巣くっている、要するに最も太宰が忌んだ、その田舎名士のごときアホたちが、太宰の『人間失格』をモチーフやテーマにして45分の番組をつくることに、寸善尺魔の思いなおなお強い。

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つなぎ

鬱病の身体症状は軽減し始めた。とはいえ、何がきっかけで逆戻りするや、予断はならない状況ではある。ほんの些細なことで、いっちまうからな。・・・児童小説のシリーズ1巻めを脱稿。今回は3巻通しで、主人公のライバルを統一したため、さっそく次にかからねばならない。いわゆる、海外テレビドラマのシーズン1が終わって、つづく、のスタイルにしてあるためだ。・・・ずっと寝酒をやめているので、朝のアイスコーヒーがカラダにしみていく。この快感がたまらない。トーストが美味い。(私はパンそのものの味が損なわれるためにバターはつけない)咳止め煙草の微量ニコチンが、これまたウマイ。・・・近所の知己が悪徳受信料放送局の特集『絶望するなダザイがいる』とかいうのをビデオってくれて、わざわざみせてくれたのだが、受信料を払っていなくてほんとに良かった。これほどひどい、なんだかワカラン番組は観たことがない。太宰生誕百年で、姑息に創った錯誤と欺瞞と手抜きの下手くそな番組だった。テーマやモチーフ以前の、作り手の倫理の問題だろう。霊感商法よりあくどいのである。・・・それに比して、ここのところ数日の中日新聞(東京新聞)の一面コラム『中日春秋』はセンター前のクリーンヒット連続安打だと思う。感服した。

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