2009年11月25日 (水)

量子力学と弁証法

吉本さんの『最後の親鸞』について、この論述は吉本さん自らの思想の理想を描いたものとして、畏敬せざるを得ないものではあるが、一点、一ヶ所だけ、どうにも喉の通りがよからぬところがある。気になるので、気が済むように書いてみる。まず、本文を長いけれど、引用する。「(前略)人間は〔不可避〕にうながされて生きるものだ、といっていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されてゆく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択出来た出来事とは、いずれ大したものではない。なぜならば、偶発した出来事とは、客観的なものから押しつけられた恣意の別名にすぎないし、意志して選択した出来事は、主観的なものによって押しつけられた恣意の別名にすぎないからだ。真に弁証法的な〔契機〕は、このいずれからもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかにすべがなかったという〔不可避〕的なものからしかやってこない」これは、『歎異鈔』の有名な一節、親鸞が唯円に「わたしのいうことばを信ずるか」と問い、唯円が「おおせのとおり信じます」と答えて、親鸞、「それならば人を千人殺してこい」、唯円「一人でも、私の器量では殺せません」と答え、そこで親鸞は、弥陀の本願は、「何ごとでも心に納得のすることであったら千人でも殺すだろう。けれど、一人でも殺す機縁がないから殺すことをしないのだ。心が善だから殺さないのではない。また逆に殺害などすまいと思っても百人千人を殺すこともありうるはずだ」すなわち、弥陀の本願とは、人の心の善を「よし」と思い、悪を「わるい」と思って救われるのではなく、そのような人間の思量を超えたところで、助けられるのだ。と説くところに対しての、〔契機(業縁)〕に対する吉本さんの考えだ。もちろん、これは吉本思想の〔関係の絶対性〕にも通じるものであることはいうまでもナイ。ところで、私の異論とは、このとおりに衆生が親鸞のコトバを受け取ったとすれば、〔悪人正機〕説において、みずからもって悪をなすという衆生の現れることは当然のように思われる。それに対して親鸞は「面々の御計(おはからい)」と応じるのだが、この親鸞の応弁から察するに、親鸞は仏教的な〔契機(業縁)〕というものをすら、解体すべく道にあったのではないかということだ。-この項つづく

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2009年11月13日 (金)

狭霧の夜空に

ひとは、幸せになろう幸せになろうとして、けっきょく不幸にたどりつく。この謎はなかなか解けるものではナイ。イエスには、旧約があった。それにそって、天国への道を説けば良かった。釈迦(シッタルタ或いはシッダッタ)が、どのような伝説に覆われていようとも、ただひとつマチガイなくいえることは、人生というものの本質が「苦しみ」「不幸」であるということを喝破したことだ。幼少から、さまざまな学問と、高名な修行僧に学んで、そのことごとくを退けたのは、最初にあげた、問いかけに対する答えがみつからなかったからだ。原始の釈迦仏教における釈迦仏陀のコトバが、驚くほど単純なのは、釈迦仏陀の説法が独特のものであったからだ。いわゆる「人(にん)をみて法を説け」(この場合の法は真理のこと)というもので、これが「対機説法」とも、「応病与薬」ともいわれる所以だ。メーテル・リンクもまた戯曲『青い鳥』で、幸せを求める物語を書いているが、これを、ふつうに主題として解読されるように、けっきょく幸せというのは、身近にあるものだ、というふうには、私は読んでいない。私の誤読は、「幸せというものは、身近にある(程度のもので)しかナイ」だ。「幸せを求めるというのは、ひとつの病気ですよ」と、不幸の門の番人が、そこまでやって来た者たちにさとすのである。そこで、幸せを求めてやって来た者が問う。「この門はなんのために在るんですか」と。門番は答える。「聞きなさい、この門こそは出口なのです。入り口の門など、何処にもナイのです」そんなバカなと、ひとは、門をくぐる。幸せからの出口の門を。

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2009年11月11日 (水)

switch

カラダのほうは、ともかく横になれば、休めるのだが、思考のほうはswitchがナイので、複素数空間のカタマリが、去来する。テレビでトークバラエティを一本、観ただけで、疲れて微熱が出るのだけれど、それを抑えるのに、読書するてな、ほんとにややこしい宿痾なのだ。んでと、『仏陀語録 オリジナル』(島田裕己・三五館)は読了したのだが、この、釈迦仏陀が最初に語ったという、文言の数々、いま少し社会的背景、状況などを(多少は解説さてはいるのだけれど)示して欲しかったうらみが残る。仏陀が、コトバを書き物として残さなかったのは、その文言が、のちの世に誤解を生むことをおそれたタメだとは、考えにくいのだ。それなら語りコトバも同等だと思えるからだ。この語録には、当時の世俗(とくにバラモン教)に対しての、異論が多くあったはずだ。『九マイルは遠すぎる』で有名なミステリ作家のハリー・ケメルマンは、新約聖書に矛盾が多いのは、それがイエスの辻説法の記録だからだと断言している。(ハリー・ケメルマン自身はユダヤ教徒)ケメルマンにしてみれば、イエスのキリスト教も、当時多くあったユダヤ教の一分派でしかなく、その教えは辻説法で語られた。仏陀においても、学舎(まなびや)を持つまでは、そのような辻説法の旅がつづいたと推測される。したがって、この著書の仏陀の文言は、そのあたりのものではないかというのが、感想だ。イエスは若くして磔刑となったが、釈迦は当時としては、かなりの長命であった。おそらく、菩提樹の下から、民衆の中へ、さらに多くの弟子たちとの交わりにおいて、その哲学は熟成していったとみるのが、妥当だろう。

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2008年9月30日 (火)

いまそこに在る風景

訪問者メールで質問を頂いた。つづめていえば「『般若心経』をそのまま認めると『般若心経』それ自体も菩薩も仏陀も是空になるが、そうすると『般若心経』などナイことになる。この矛盾を貴君の表現論で答えるとどうなるか」というもので、つまり般若心経によると五蘊一切皆空、色即是空であり、それじゃあ、般若心経だって「空」ではないか、それは矛盾しないかということだ。手っとり早くいってしまえば、般若心経という教典(表現)とその作者が存在する、と私の表現論ではそういう答えになる。世界が是空なのかどうか、そんなことはワカラン。ただ、『般若心経』という教典と作者は存在しないと話は始まらないということだけだ。これはデカルトの「我思う、故に我在り」と同じ手続きである。ただし、般若心経を説いている菩薩や聞いている仏陀を実体としてしまうと、在るものと無いものとの二元論になってしまう。そうなると単なる宗教に堕す。だから『般若心経』の説くようにどっちも「空」なのだ。菩薩も仏陀もあるのかないのか、あるともいえるしナイともいえる、そういうものだ。ただその作者と表現(教典)が存在する。表現だけが存在したって構わない。その場合はその表現がその表現の作者となるだけだ。而、そのような表現などあるのかないのか、あるともいえるしナイともいえる。論理的にこれで矛盾はナイと思われる。

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2008年9月 5日 (金)

少年スピノザ・10

これを書き始めるとき、その最初の文章を「『エチカ』を閉じたとき、スピノザの世界は消え、現実が姿をみせる」というふうにするつもりでいた。スピノザの論理的演繹転換による世界はみごとである。スピノザの世界はしかし、それゆえにか、魅力的であるのと比例するように、何処か非現実的な感触が否めない。これは論理がではなく、私たちが生きている、生活している現状と比肩してだ。スピノザの真理は、それぞれが真理であるのに、いやそれゆえに、ある矛盾を持つ。それは、ひとがより真理たるべく発意して、神の真理に背くことなく行う行為も、憎悪と落胆の結果を招くということだ。たとえば、為政者の側からは自爆テロといわれているイスラム反政府軍の闘いも、アッラーの神の忠実なる僕、あるいはその意に則しての営為であるのだから、彼(彼女)にとっては真理を成す営為であるはずだ。スピノザの真理は、数あるだけ真理と乖離したり、衝突したりすることが生ずる。しかし、翻って、スピノザの論理で演劇を語ることは可能であるように思える。・・・漠然と具体な思いで書き始めた、いずれ町場の哲学談義だが、神と世界(自然)と人をめぐる、あの180度の転換の発想には拍手喝采出来るものがあった。こんなことはチェスタトンの『正統とは何か』以来の出来事である。40代半ば、若くして逝去したこの少年(と呼んでもいいくらいの哲学者)が私くらいの年齢になって、何を語ったろうか、それを目にも耳にもできないのが残念なところだ。

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2008年9月 4日 (木)

少年スピノザ・9

スピノザの世界観をまるっと演劇にカテゴリーパスしてみる。舞台にあるものはすべて虚構であり表現である。役者も椅子も蝋燭も、同じだけの正しい虚構を持たされた真理ということになる。さらにここに「観客」を含める。ここがたいせつなところだ。なにしろ外側がナイのだから、その演劇に関するモノはすべて内側のものとなる。従って同様に局所的な真理というものが観客にも在る。ただ、正しい虚構も偽の虚構も観客は所有してる。観客の表現は批評というカタチで表出される。便宜上、この世界に外はナイ。外を日常という。日常はこの世界とは何にも関係しないということになっている。この世界に日常のものをそのまま運び込むことは出来ない。椅子ひとつにしても、虚構、表現、創造、どう称してもよいが、手がつけられている。たとえば、海外の前衛劇で、演出家が舞台に登場するカントールとかだっけ、『死の教室』とかいうのがあったが、その場合、演出家は日常において稽古につきあっていた者とは異質のもので、虚構の手が施されている。当時何だかマスコミがやんやと取り上げていたのを観て、こちとらは笑っていただけである。ありゃあね、道化だよ。スピノザと比較してこの世界にナイものは「神」だけだ。そこでここから反証的に三つ世界を企てる。スピノザのように神がまるっとの世界と、神はいなくとも同様の世界、そうしてふつう考えられているような、外に神の在る世界。これらを比較すると残念ながらとでもいうのだろうか、寸分違ったところはナイ。どの世界でも無差別殺人は起こる。つまり、神というのはそういうものなのである。しかしながらスピノザの世界が安穏なのはそれが演劇に似ているからに相違ない。

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2008年9月 3日 (水)

少年スピノザ・8

神は世界すべてであって、よって世界すべては真理である。従って「外」はナイ。これがスピノザの神と世界の関係、あるいは構造だが、そうするとクリスチャンが拠り所にしてきた「天国」というのも在るワケがナイ。外がナイのだから、外のにもう一つ(か、幾つか知らないが)世界が在るというのは論理矛盾になる。このあたりはデカルト主義者ではなく、教会や信徒からも総スカンを食ったところではないかと思う。ただし、前述したニーチェはスピノザのこういうところに親睦を持った。ニーチェは無神論者のように思われているが、そんなことはナイ。無神論者が神を攻撃するワケがナイ。『アンチ・クリスト』は教会権力と、その詐術について、さらにそれらに服従しつつ、天国なんぞを求める「大衆」の怨嗟における嫌悪を吐露したのだ。だから、ニーチェはただ一人キリスト教徒を認めている。イエス自身である。この世界が神の内側であるという発想はスピノザの専売特許というワケではナイ。仏教においては、教典が五万とあるので、その中には銀河系というのは仏の毛穴であると記されているものもある。つまりは仏の掌が世界なのだ。菩薩はユビキタスであるし、仏は常におわせども、なのだ。ともあれ、スピノザは、その革命的世界観に依って際立ち、逆にそれによって異端として追い詰められる。スピノザ少年にとっては、聖書も予言者も根拠がナイ、それゆえに正しいのである。自身の論理に忠実であろうとするとそうなる。何故、それをワカッテもらえないのだろう。スピノザ少年にとっては不思議だったろう。しかし、神をすっぽり自身の論理でくるむなど、誰が認めよう。

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2008年9月 2日 (火)

少年スピノザ・7

世界のすべて、自然のすべてを「神」自体とすることによって、生じてくるその論理への不満、認め難さ、嫌悪は、創造世界と神とを別個のものに措定した場合よりも遥かに多い。この世界(自然)すべて、人間すべてが真理であり、その道理はその「材」が「神」だからであるといわれているのだからだ。近隣なもので例えをあげれば、あのアフガン復興の志ある青年を殺害したタリバン一党も真理であることになる。北朝鮮の指導者も真理ということになる。そんなことが許されるのだろうか。しかし、スピノザの論理においては、それらはみなゆるされる存在、真理の存在であるということになる。ただし、彼らは「虚構」を間違っている。というか「偽」の虚構において存在している、ということもまぎれもない事実なのだ。だから、どうなればいい。その虚構は否定され、真なる虚構に改変されればいい。という単純な答えになる。スピノザは人は人を超えていかねばならないとした。ここはニーチェのお気に入りだったようで、かつヘーゲルはここに「運動」する世界を見出し、スピノザを擁護した。つまりここには「操作」=「時間」が導入されることになる。どういうことかというと、スピノザは現状を書き抜いたのではなく、あるべきユートピアを演繹したということになる。

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2008年9月 1日 (月)

少年スピノザ・6

ところが、この「不和」は論理的に克服(止揚)することが可能なのだ。神=世界であるのだから、私の命題(定義)をスピノザの公理に導入して、一つの定理をつくることを試みてみよう。すると「神は私の表現であり、私は神の表現である」ということが出来る。これは何れの定義、公理にも矛盾しない。私は人間であるのだから、この定理をいい換えると、「神は人間の表現であり、人間は神の表現である」ということになる。ここで、世界は神の真理そのものであって、人間は真理の部分であったことを思い出すと、あたかもフラクタルのように、部分は全体であり全体は部分である、ということがいえるし、私なりのいい方になおせば、「部分は全体の部分であるとともに、全体と関係し、かつ全体と同じである」という演劇におけるキャストの在り方と同じいい方になる。もう一歩踏み出していいなおしておけば、「真理は真理の部分から成り、真理の部分は真理から成る」ということだ。これで、スピノザ少年の演繹の前提からやってくる閉塞感、窮屈な感覚に風穴を穿つことが出来ているように感じられる。カソリックの教条をも恐れぬスピノザ少年の神-世界-人間の在り方のコペルニクス的転換は、ここにいたって、ニーチェやマルクスの無神論も塗り替えることになる。とはいえ、スピノザ少年の論理には、少年ゆえの危うさ、甘さが多分に含まれている。次回からはそれを吟味していく。

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2008年8月31日 (日)

少年スピノザ・5

ところが、スピノザの真理=世界=神は、日本の産土八百万ほど牧歌的でもナイ。それはスピノザの世界が神という存在で閉じられている(張りつめられている)ということに、多少の閉塞と窮屈さを感受するからに他ならない。また、産土八百万では、人間はその範疇にはなかったのだが、スピノザの世界では、論理的帰結として、私たち人間も真理の一部ということになっている。それについてスピノザがこう考えた・・「若干の真理に達している人間の精神がこの世界に存在するためには、この世界はどのようになっていなければならないか」・・という論理的帰結だからだ。スピノザによると、人間の知性には、もともと真なる観念がいくつか与えられており(神の一部なんだから、そうであるはずだ)勝手な虚構はゆるされないことになっている。勝手な虚構というのは円が四角形をしている、とか、樹木や金属はコトバを持っているとか、の類である。そういうデタラメな虚構をおのずと拒否する観念の存在こそ、人間がこの世界において真理の一部であるという証なのである。ここで、スピノザは牧歌的虚構世界から別れを告げているように感じる。スピノザにとって、この世界は(間違った)虚構をゆるさない世界である。さてここに私の従来の命題(定義)を提出することにする。「世界は私の表現であり、私は世界の表現である」これは一貫しての私の表現論の命題(定義)だ。この「表現」というのをスピノザのいう「神=真理」と置換しても文法的解釈は成立するようにみえる。スピノザの虚構は、創作された虚構ではなく、事物の実体における制限であるから、表現とはもともと乖離しているので、衝突排他することはナイ。表現というのは事物の実体を述べているのではナイからだ。がしかし、この命題(定義)は公理として否定される。何故なら、世界は神であるのだから、それが表現であるなどという定義は認められるワケがナイ。こうして、私たちとスピノザ少年のあいだに、ある〔不和〕がおとずれる。

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